宗道臣
開祖 ヒゲメガネ無しの頃
▲ヒゲメガネ無しの頃
少林寺拳法
[1911〜1980]

この見るからに怪しいオッサンは誰か?
少林寺拳法開祖宗道臣であーる。
少林寺と言えば、
中国拳法。達磨大師。少林寺三十六房。リ−・リンチェン…。
ということは、宗道臣は崇山少林寺の高僧か?
否。
彼は日本人である。
宗道臣は福岡の下級税関吏の子として明治44年(1911)に生まれる。
子供の頃は祖父に古流柔術を習ったという。
昭和3年(1928)、特務工作員として渡った満州で彼は、
拳法と出会うことになった。

これより前、
大陸では、1900年の義和団敗北により、
清朝による漢民族の拳法禁止、道場閉鎖、指導者の処刑が行われた。
その為に大っぴらに拳法修行が出来なくなり、拳法人口は激減。
在野にわずかに生き残った高手達の技芸も滅びの運命を歩んでいた。
この時、永久に失われた秘伝も多かったろう。

清朝も滅んだ昭和初期。
満州に特務工作員として渡った宗道臣は、
工作員活動で各地に潜行しやすいように、坊主の弟子になる。
この時繋がりを持った地下組織の師父・陳良老師との出会いが拳法との初縁となった。
陳良老師は白連門拳の師範であった。
その後工作活動で中国各地を渡り歩く度、
その地で出会う老拳師達に教えを乞い、技を磨いていった。
さらに陳老師の紹介で、北京に隠棲していた
北少林義和門拳20代宗師家・文太宗老師に拝師することになる。
文老師はすでに70歳を越えており、
少林秘伝を受け継ぐ数少ない大師の一人であった。
工作員活動のない日は、時間も行動も自由で、
宗道臣は、ありあまる時間を拳法修行に費やした。
そうして遂に義和門拳伝法の印可まで受けてしまうのである。

彼は帰国後、大師達から受け継いだ技に、創意を加えて再編整理し、
これに『少林寺拳法』の名をつけて一大流派たらしめた。
宗道臣、この時、36歳である。
敗戦後の香川で道場を開き、治安の悪い社会情勢下で、
自警団的な役割を担うことになり、
人数が増えるにつれ、周辺地域の暴力団を凌ぐ組織となっていった。
組織が大きくなるにつれ、当時、武術修行を禁止していた
進駐軍に目をつけられる怖れが出てきた為、
宗教法人登録をして、拳法の修行を体操の一種だとして進駐軍の目をごまかした。
ってなワケで写真のような扮装なのである。
少林寺総本山では故開祖の立派な霊廟まで造られ、今もって神仏扱いだ。
少林寺拳法は、

『剛法』…突,打,蹴  『柔法』…投,抑,絞  『整法』…身整体

の三法から成り、『整法』の中には秘伝として『圧法』…経絡秘孔への当身なんてのもある。
本家である中国の少林寺にある蛇拳,猿拳,鶴拳なんかは勿論無くて、中国拳法に有りがちな歌舞伎の見栄のような変なポーズや、雑疑団のように飛んだり跳ねたりもない。
宗道臣はよほど実質主義な人だったようで、無駄な動きは極力捨てて有効でしかも簡潔な動きのみを残した。
現在ある少林寺拳法は、どの動作も身体理学に基づく理屈に適った、かなり完成度の高い武術と言える。

『剛法』だけでも、上中下段の全てを同時に守る三連防や、両腕を交差させて相手の攻撃を受ける十字受け、相手の膝裏を刈払い、または踏みつける刈足、他にも踏足や、膝当、金的蹴り、飛連蹴りなど、かなり独特な技が数多くある。
蹴りにしても空手のように足の甲ではなくて、前足底で蹴るのである。
『柔法』の投げ技の多くは、合気道の技に似たものが多いが、合気道に比べ、より少ない動作をもって、素早く簡潔に技を行うように出来ており、投げるだけではなくて、掴まれた腕を抜く、あるいは抜いて攻撃する、あるいは抜いて投げる、投げた後トドメを刺す、あるいは投げた後固める、といった具合に、一つの攻撃への対処に様々なバリエーションをもった構成になっているのだ。(このあたりジークンドーに似てるな)
これに『圧法』の当身術が加わると、ちょっと完璧すぎてコワイくらいだ。
(もっとも『圧法』はその危険性から、日本少林寺武道専門学校の、それも高段位の者しか教えてもらえないが)

そういえば、『刃牙』でも理屈上は少林寺の欠点を指摘出来なかったもんな。
あれ確か、噛みつきとか無茶苦茶な方法で勝ってたよね。
さすがは、バカ力系格闘技マンガだ。


押受巻投(五花拳)
押閂投(五花拳)
上受投(五花拳)
(財)少林寺拳法連盟本部
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